ユーフラテス川とティグリス川に挟まれた地域は、考古学や古代史研究などでは現在、メソポタミアと呼ばれています。
このメソポタミアの北部はアッシリアと呼ばれ、南部はバビロニアと呼ばれる。
南部のバビロニア(現代のバグダードからペルシア湾に至る地域)のうち、古代都市ニップル近辺よりも北側をアッカド、南側をシュメール(シュメル)と呼ばれています。

発祥の地・北部

ユーフラテス川とティグリス川の上流の乾いた土地の平地は気候が温暖で、天水農業が可能。土壌の養分も多く、野生のムギ類が自生し、山羊などの草食動物も多くいました。
紀元前8000年紀頃、このような上流の川沿いの乾いた地域で人類最初の農耕・牧畜が始まったと考えられています。
このチグリス・ユーフラテス川流域から現在のシリアと地中海沿岸のパレスチナを結ぶ三日月形をした地帯は、最も早く農耕文明が成立した地域で北部の山岳地帯と、南部の砂漠地帯に挟まれ、メソポタミア文明発祥の地とされている。
三日月形地帯の西側で地中海に面した地方はレヴァント地方と言われ、文明形成後は貿易がさかんに行われる地域になりました。

両川がペルシャ湾(アラビア湾とも言い、現在のイラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、バーレーン、アラブ首長国連邦、オマーンが接する湾)に流れ込む河口周辺は降水量が少ない砂漠地域で天水農耕は不可能で、両川が度々氾濫し洪水に見舞われる湿地地帯であり、農業に適さなかった。

この地域の権力者の変遷

北部メソポタミアでは、
紀元前6000年から紀元前5500年ごろのハッスーナ期
紀元前5600年ごろから紀元前5000年ごろにかけてのサーマッラー期
紀元前5500年ごろから紀元前4300年ごろにかけてのハラフ期の、3つの文化が栄えていた。

紀元前8000年紀から西アジア一帯で簿記のためのしるしとして使われていたトークンと呼ばれる道具が印章へと変化し、さらにその印を手で書いて絵文字化することで、紀元前3200年頃にウルク市において最古の文字とされるウルク古拙文字が誕生した。
この文字は象形文字・表語文字であったが、紀元前2500年頃にはこれを発展させた楔形文字が誕生した。
楔形文字は周辺諸民族にも表音文字として借用され、紀元後1世紀頃まで西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用された。記録媒体は粘土板が用いられた。
楔形文字によって書かれたものとしては、後のハンムラビ法典がよく知られています。

南部・シュメール文明

メソポタミアの土地は肥沃であり、経済の基盤は農業でした。 乾燥した南部メソポタミアへの人類の定着は遅れ、紀元前5500年頃に始まるウバイド期に入って初めて農耕が開始されます。この時期にはエリドゥをはじめとしていくつかの大規模な定住地が誕生し、やがて町となっていく。
本格的なメソポタミアへの入植は灌漑技術の獲得後のこととなったが、その豊かな収穫は多くの人口の扶養を可能とし、文明を成立させる基礎となります。
灌漑用水の確保のために運河やため池が整備され、家畜による犂耕や条播器による播種が行われます。
主穀は大麦で、その反収は高く、紀元前2500年頃の大麦の収量倍率は約76倍と推定されます。
ただし農地に多量の塩分が含まれていたため塩に弱い小麦の栽培はできず、さらに時代を下るにつれて土地の塩化が進行したため大麦の反収も減少していった。
大麦は主食となるほか、この地域で大変好まれたビールの原料になります。
農作物としてはナツメヤシも重要で、食糧・甘味料・酒造原料・救荒作物・保存食など食用としての用途の他、樹木の少ないメソポタミアにおいて建材などにも使用されました。
菜園ではタマネギなどの野菜が栽培されたほか、家畜としては羊やヤギ、牛やブタなどが飼育され、また魚も広く食用されます。

紀元前3500年頃にはウルク期がはじまり、メソポタミア最南部にシュメール人によるいくつかの都市が誕生した。
エリドゥ、ウル、ウルクなどがこの時期に成立した都市であり、ウルク期の名も代表的な都市であるウルク市に由来します。
紀元前3100年頃にはジェムデット・ナスル期がはじまり、都市はバビロニア全土に広がっていきます。

紀元前2900年頃には初期王朝時代となり、ウル、ウルク、ラガシュなどの多数の都市国家が成立して絶え間ない抗争が続き、
紀元前2400年頃、統合の動きが強まり、ウンマの王だったルガルザゲシが周辺諸都市を征服し、ウルク市に本拠を移して「国土の王」を名乗り、シュメールを統一しました。
紀元前2350年頃、北のアッカド王サルゴンがルガルザゲシを打倒し、アッカド・シュメール両地域の最初の統一王朝であるアッカド帝国を建国。
この王朝は150年ほど続き、第4代のナラム・シン王の下で周囲に進出して大きく国土を広げたものの、次の第5代シャル・カリ・シャッリ王の時代に東方から進出したグティ人などの侵攻によってアッカド帝国は衰退し、100年ほどの混乱期に入ります。
この時期各都市は再び独立し割拠し、
紀元前2100年頃、シュメール人によるウル第三王朝がウル・ナンムによって建てられ、メソポタミアを再統一。
ウル第三王朝は2代シュルギ王の時代に最盛期を迎えたもののその後衰退し、100年ほどで滅亡してしまいます。

バビロニア

セム人系のアムル人が西方から進出し、紀元前2004年にウル第三王朝が滅亡すると、南メソポタミアではアムル人系の王朝が多く立てられます。
この時期には中部のイシン第一王朝が強大となりウル第三王朝の後継者を自任したものの、やがて南部のラルサも強大となり、この2強国を中心にいくつかの都市国家が分立した、イシン・ラルサ時代です。
同じくアムル人系であるバビロンを都とする古バビロニア王国(バビロン第1王朝)もこの頃建国されます。
さらに、北メソポタミアでアッシリアが勃興しました。

まず紀元前1794年にはイシンがラルサによって滅ぼされたものの、やがてバビロン第1王朝が第6代のハンムラビ王の元で強大となり、30年間にわたる戦争の後、紀元前1759年にメソポタミアを統一します。
ハンムラビ法典(ハムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」の復讐法が有名)は彼によって作られました。
ハンムラビの死後バビロン第1王朝は少しずつ衰退していき、また北のアッシリアはミタンニ王国の支配下に入り、
紀元前1595年頃、現在のトルコにあったヒッタイトにより古バビロニア帝国は滅ぼされました。

鉄・鋼の発明

最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされています。
ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていましたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによる鋼を開発、鉄を主力とした最初の文化を作り上げます。
ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となりましたが、
その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事は有りませんでした。

メソポタミア・バビロニア

紀元前1500年頃にはバビロニアでカッシート人が統一王朝を築き、その北では紀元前1340年にミタンニが滅亡するとアッシリアが一時中興します。
この時期のオリエントはエジプトやヒッタイト、アッシリア、バビロニアといった大国が併存していました。
しかし、紀元前1200年頃に大きな地震が数十年続き、力を持つ個人の集団「海の民」が各都市を襲い陥落させるカタストロフが起き、オリエント一帯が動乱期に突入しました。
ヒッタイトの国家機密として厳重に秘匿されていた鉄・鋼の製法は「海の民」により、周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になります。
カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えてました。
同様のことはエーゲ海地方においても起き、紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住します。
この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代でした。

紀元前1155年にはカッシート朝が滅亡し、イシン第二王朝が一時勃興したものの、その滅亡後バビロニアは長い混乱期に入った。
またアッシリアの勢力もこの時期に一時縮小します。

アッシリア

紀元前9世紀、馬や戦車、鉄器を使用し、残虐行為によって恐れられたアッシリアが勢力を広げます。
アッシリアの拡張はその後も続き、紀元前745年即位したティグラト・ピレセル3世の時代にアッシリア帝国はメソポタミア全域とシリア、パレスチナを支配します。
紀元前722年にはアッシリア帝国によりイスラエル王国(分裂後の北王国)が滅ぼされます。
紀元前671年、アッシリアのエサルハドン王の侵攻によりエジプトが支配され、アッシリア帝国はオリエント地域全体を支配する大帝国になりました。
次代のアッシュールバニパル王の時期にアッシリア帝国は最盛期を迎えるものの、治世後半期から急速に衰退します。

各地で地方勢力が独立し、紀元前625年にはナボポラッサルによってバビロンに新バビロニアが建国。紀元前612年、新バビロニアとメディアの反撃により、アッシリア帝国の首都ニネヴェが陥落して破壊されます。
紀元前609年にはアッシリア帝国が完全に滅亡し、オリエントはイラン高原のメディア、メソポタミアの新バビロニア、小アジアのリュディア、エジプト第26王朝の4帝国時代を迎えました。

新バビロニア

新バビロニアは第2代ネブカドネザル2世の次代に最盛期を迎え、
ネブカドネザル2世は首都バビロンの再建を積極的に行う一方、シリアやパレスチナ方面へと進出します。
紀元前597年にはユダヤ人のユダ王国(南王国)の首都エルサレムを占領して、同国の王族は捕えられてバビロンに送られる。
「バビロン捕囚」があり、紀元前586年にはユダ王国が再び反乱を起こしたが再度バビロニアに鎮圧され、残る人々も捕囚の身となって新バビロニアのニップル付近に強制移住させられました。

ペルシャ

紀元前539年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを含むオリエント全域を領土とする大帝国を築き上げた。
アケメネス朝の支配は200年ほど続きます。

紀元前331年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世がバビロンに入城し、ペルシアの支配は終わった。

アレクサンドロスの征服以降

メソポタミア属州
紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると彼の帝国はほどなくして瓦解し、メソポタミアはディアドコイ国家のひとつであるセレウコス朝によって支配されることとなった。
紀元前141年にはペルシア高原から侵攻してきたパルティアがこの地を占領した。
116年、トラヤヌスが率いるローマ帝国軍は、パルティアを破ってメソポタミアを占領するが、翌年トラヤヌスが死去(117年)すると、後継皇帝ハドリアヌスは翌118年にメソポタミアから撤退し、再びパルティア領となった。
しかしその後もローマはしばしばパルティアへと侵攻を続け、メソポタミアは基本的にはパルティアに属しながらもたびたび支配勢力が変化した。
パルティアが滅亡し、230年にメソポタミアがサーサーン朝の領土となると、メソポタミア中部に首都クテシフォンを置いて繁栄した。

636年、イスラム帝国がクテシフォンに入城し、以後ウマイヤ朝、アッバース朝、モンゴル帝国、イルハン朝、オスマン帝国などの諸帝国の支配を受け、1920年にはイギリス委任統治領メソポタミアが成立し、1932年にイラクが独立するとその領土となった。